年代順インデックス

サイト管理人のブログです。このサイトは、bishamonten.infoのサブドメインになります。2023年以降は、このサイトに掲載されています。2022年以前は、 bishamonten.infoのTOPページよりアクセス可能です。

<2026年>
豪徳寺
龍穏寺 関三刹より
補陀落山西方寺
浄真寺九品仏創建時のこと
大宮氷川神社
大崎八幡宮
平等院鳳凰堂と宇治神社
瑞巌寺 特に五大堂
白水阿弥陀堂
黄檗宗萬福寺と曹洞宗總持寺

<2025年>
新義真言宗豊山派大本山 護国寺 総持寺
祈りの空間ー興福寺北円堂 東博特別展示より
姫路城
九品仏浄真寺
寛永寺 with 西郷隆盛像と徳川慶喜墓所
吉田茂邸と白洲邸(武相荘)
新薬師寺
浄瑠璃寺
開化天皇陵
平城京跡
深大寺

<2024年>
石舞台古墳
薬師寺東院堂
室生寺
三渓園旧東慶寺仏殿
光前寺(長野県駒ケ根市)と高遠石工守屋貞治の石仏
円成寺
千本釈迦堂
中尊寺金色堂 東博特別展より
北野天満宮
増上寺と寛永寺(&上野東照宮)
海住山寺と恭仁京跡
岩船寺と当尾の石仏

<2023年>
長谷寺
安楽寺
聖林寺
元善光寺と染谷不動堂
多武峰談山神社
観心寺
妙心寺 特に退蔵院
武蔵国国司舘&国分寺
高台院 ねねの寺
新選組関連旧跡
六波羅蜜寺

<2022年>はこちらから

<2021年>はこちらから

<2020年>はこちらから

<2019年>はこちらから

<2018年>はこちらから

<2017年>はこちらか

2022年以前の一覧はこちらから(開くのに時間掛る可能性あります。)


 

ブログ一覧

英勝寺

 鎌倉の扇ガ谷にある英勝寺は、東光山を山号とする浄土宗の寺院で、現在、鎌倉で唯一の尼寺です。鎌倉には、かつて尼五山の第一位に数えられた太平寺や、縁切寺として知られた東慶寺などの尼寺がありました。しかし、太平寺は戦国時代、小田原北条氏と里見氏の争いに巻き込まれ、弘治二年(1556)に廃寺となりました。東慶寺も明治以降、尼寺としての役目を終え、男性の僧侶が住職を務めるようになりました。こうした歴史を経て、英勝寺は鎌倉の尼寺の伝統を今に伝えています。

画像の紹介:左又は下:英勝寺山門 右又は上:英勝寺本堂

 英勝寺を参詣した際にいただいた「拝観のしおり」をもとに、この地の歴史をたどってみます。周辺は古くから亀ヶ谷や扇ガ谷と呼ばれ、平安時代には源義朝の屋敷があり、鎌倉時代には寿福寺が営まれました。鎌倉幕府が滅びて足利氏の支配が及ぶようになると、この地には上杉氏が屋敷を構え、その家臣である太田氏も上杉氏の屋敷の一角に住むようになりました。ところが、扇谷上杉氏と山内上杉氏の対立のなかで、文明十八年(1486)に太田道灌が暗殺され、太田氏は衰退していきました。英勝寺の歴史には、この太田氏との縁が深く関わっています。
 英勝寺を寛永十三年(1636)に創建したのは、太田道灌の子孫である太田康資の娘、お勝の方です。お勝の方は徳川家康の側室となり、後に水戸藩の初代藩主となる徳川頼房の養育にあたりました。家康の没後には出家して英勝院と名乗り、後に英勝寺を創建しました。開山となったのは、頼房の娘である小良姫で、玉峯清因と称しました。その後も代々、水戸徳川家の姫君が住持を務めたことから、英勝寺は「水戸御殿」や「水戸様の尼寺」と呼ばれるようになりました。

画像の紹介:左または下:英勝寺山門「詰組」 右又は上 :山門の「丸に三つ葉葵」 

水戸徳川家の手厚い保護を受けた境内には、江戸時代初期の建築がまとまって残されています。山門、鐘楼、祠堂、唐門とも呼ばれる祠堂門は、いずれも重要文化財です。建物を見て歩くと、それぞれの造りに共通する特徴と、細部の違いに気づきます。建築様式は禅宗様を基本としていますが、山門、鐘楼、仏殿の屋根には反りがなく、まっすぐに葺き下ろされています。禅宗様の細部と直線的な屋根の形をあわせて見ることが、境内の建物を味わう手がかりになります。
 山門では、屋根を支える組物である斗栱が、柱の間にも密に並ぶ「詰組」になっています。また、仏殿には、上部が曲線を描く花頭窓が見られます。これらは禅宗様の特徴を示す部分で、建物全体の姿を眺めた後、屋根の下や窓の形に目を向けると、その造りをより身近に感じられます。境内の随所にある屋根瓦などには、徳川家や水戸徳川家の紋である「丸に三つ葉葵」が見られ、寺と徳川家との結びつきを伝えています。「拝観のしおり」にも、大きな三つ葉葵紋と、その下に小さな桔梗紋が描かれています。

画像の説明:左又は下:英勝寺鐘楼 右又は上:「拝観のしおり」
左上に「丸に三つ葉葵」(徳川家や水戸徳川家の紋)、その少し下に
「桔梗の紋」(太田氏の家紋)

 現在の山門に至るまでには、長い復興の歩みがありました。山門は大正十二年(1923)の関東大震災で倒壊し、その後、山王ヶ谷の資産家に買い取られました。平成十三年(2001)に英勝寺が買い戻して復興工事を進め、平成二十三年(2011)五月には落慶供養が行われました。今日目にする山門は、江戸時代からの歴史とともに、震災後の復興の歴史も伝えています。

 仏殿の内部は通常公開されていませんが、山門の落慶供養の際に寺から発行された「東光山英勝寺」に掲載された内海恒雄氏による寺宝解説には、「仏殿内部は天井の中央には竜、周囲には楽を奏でる音声菩薩や迦陵頻伽が描かれ、水戸徳川家の三つ葉葵や太田家の桔梗の紋が描かれている」と記されています。外から見える建築の細部だけでなく、仏殿の内側にも、こうした絵画の世界が広がっていることがわかります。
 境内を奥へ進むと、裏庭には、小規模ながらよく手入れされた竹林があります。歴史ある建物を見て歩いた後に竹林を眺めると、境内の静かな趣をゆっくりと感じられます。英勝寺は、お勝の方や水戸徳川家にまつわる歴史、江戸初期の建築、そして竹林の景色を通して、鎌倉のさまざまな時代に触れられる寺院です。

(注)
音声菩薩(おんじょうぼさつ)は、楽器を奏でる菩薩のことです。東大寺の八角燈籠に登場します。迦陵頻伽(かりょうびんが)は、仏教における想像上の生物で、上半身が人、下半身が鳥の姿をしています。その声は非常に美しく、仏の声を形容するのに用いられます。音声菩薩や迦陵頻伽は、敦煌の壁画にも数多く登場します。
➡本ブログ内の関連項目 中尊寺 http://bishamonten.info/posts/post88.html (迦陵頻伽)
            敦煌  http://bishamonten.info/custom9.html
                http://bishamonten.info/posts/post54.html

2026年11月01日

豪徳寺

 豪徳寺は、世田谷区にある曹洞宗の寺院です。前身は「弘徳院」と呼ばれていましたが、寛永10年(1633)、世田谷15か村(後に20か村)が彦根藩井伊家の江戸屋敷賄料として与えられると、弘徳院は井伊家の菩提寺として取り立てられました。そして万治2年(1659)、彦根藩三代藩主・井伊直孝の死後、その法名「久昌院殿豪徳天英居士」にちなみ「豪徳寺」と改称されました。(ここでは二代直勝、三代直孝とカウントしました)

画像の説明 左又は下:「大谿山豪徳寺」寺号標 
      右又は上:本堂のイラスト(現在修復中でネットをかぶっているため、チャットGPTにより作成)

 豪徳寺は現在、招き猫の寺として広く知られています。寺には次のような話が伝えられています。
 井伊直孝が鷹狩りの帰途、弘徳院の前を通りかかると、門前にいた猫が手招きをするようなしぐさをしました。不思議に思った直孝が寺に入ると、間もなく激しい雷雨となりました。猫のおかげで難を逃れた直孝は和尚の説法にも感銘を受け、以後この寺を手厚く庇護するようになったといいます。
 しかし、この話がいつ成立したのかはよく分かっていません。
 日本招猫倶楽部監修『招き猫百科』によれば、現在確認できる文献・資料からは、招き猫は江戸後期、18世紀後半頃に江戸・浅草周辺で生まれたものと考えられています。そうであれば、17世紀前半の直孝の時代に、すでに今日のような「招き猫」の風習が存在したと考えるのは難しそうです。
 また、江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』や『江戸名所図会』にも、豪徳寺の項には招き猫に関する記載は見当たりません。したがって、この逸話は史実そのものというより、井伊家の菩提寺として豪徳寺が発展する契機を作った直孝の功績を、猫の姿を借りて分かりやすく語った後世の寺伝と考えておくのがよさそうです。
 現在、豪徳寺で授与される招福猫児(まねきねこ)は、小判を抱えていません。右手を挙げただけのすっきりした姿で、私はこの豪徳寺の猫がなかなか可愛らしいと思います。

画像の説明:左又は下:仏殿の「三世仏」の額
      右又は上:豪徳寺の招き猫

 豪徳寺の仏殿には「弎世佛」の扁額が掲げられています。「弎」は「三」の古字で、現在の字体なら「三世仏」です。
 仏殿の造営に力を尽くしたのが直孝の娘「掃雲院」です。掃雲院は当時日本に伝来したばかりの黄檗宗に深く帰依していました。
  承応元年(1654) 隠元隆琦が中国から来日
  万治2年(1659) 井伊直孝死去
  寛文元年(1661) 隠元が宇治に萬福寺を開創
  延宝9年(1681) この頃までに、掃雲院による造営が完了
と年代を並べてみると、豪徳寺仏殿の建立は、隠元によって明代中国の新しい仏教文化が日本に紹介され、黄檗宗が急速に広がっていた時期とちょうど重なります。豪徳寺の仏殿や仏像にも黄檗様式の影響が認められています。
 豪徳寺の三世仏は、阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒菩薩です。なぜ三尊がこの組み合わせなのか、私にはよく分かりません。ちなみに黄檗宗大本山・萬福寺の大雄宝殿は、中央に釈迦牟尼仏、その左右に迦葉尊者と阿難尊者を置き、さらに十八羅漢を配する、明代中国寺院の形式を継承しています。
 (豪徳寺の三世仏に関して、下図に説明文をコメントさせて戴きました。)
 豪徳寺の阿弥陀―釈迦―弥勒という三尊構成そのものを黄檗宗の教義に由来すると考えるのは難しく、黄檗宗の影響と「弎世佛」の意味は分けて考えた方がよさそうです。
 平成18年(2006)には三重塔が新たに建立されました。
 その軒下の蟇股には、4辺×3支/1辺=十二支の彫刻が一般に配置されていますが、その中に一匹、十二支にはいない猫がいます。
 写真を見ると、猫の左右には亥と午と思われる動物が配置されています。十二支の順番は「亥―子―丑」と続きますから、どうやらここでは子(鼠)の代わりに猫を置いて、「亥―猫―丑」とされたようです。十二支に入れなかった猫と鼠をめぐる昔話を思わせる、招き猫の寺・豪徳寺らしい遊び心です。平成18年建立の新しい三重塔だからこそできた、ちょっと楽しい仕掛けなのかもしれません。

画像の説明:左又は下  萬福寺三尊構成
      右又は上 三重塔の蟇股 右から 丑←猫←亥

 

 

<付録>「三世仏」の説明です(私が下書きをしましたが、パワーポイントで表を完成することなく、
     完成はチャットGPTにお願いしました。2分くらいでした)

2026年10月01日

龍穏寺 関三刹より

 龍穏寺は曹洞宗の名刹であり、「関三刹(かんさんせつ(注))」の一寺として知られています。関三刹とは、慶長17年(1612)に江戸幕府によって定められた曹洞宗寺院の統制制度で、總寧寺(下総国)、龍穏寺(武蔵国)、大中寺(下野国)の三か寺が定められました。
 江戸幕府は各宗派に本末制度と呼ばれる寺院の階層組織を整備し、本山から末寺までの組織を通じて幕府の法令や方針を全国の寺院へ徹底させました。関三刹は、その中で曹洞宗を統制する重要な役割を担っていました。
 曹洞宗は鎌倉時代に道元禅師が越前国に永平寺を開いたことに始まり、永平寺は修行の中心となりました。その後、瑩山紹瑾禅師(曹洞宗第四祖とされます)が総持寺を拠点として教団を大きく発展させます。特に東日本では在地領主や地方武士の支持を受けて勢力を広げ、京都・鎌倉五山を中心に公家や上級武士の信仰を集めた臨済宗とは異なる発展を遂げました。
 徳川家康が関東へ入府した頃には、曹洞宗は関東で大きな勢力となっており、その寺院組織を統制するために関三刹が設けられたと考えられています。
 この制度の特徴は、永平寺・総持寺を宗派の本山として宗教的権威を担わせる一方、寺院統制の実務は関三刹が担当した点にあります。すなわち、本山が宗教的権威を保持し、関三刹が幕府の行政機能を担うという役割分担がなされていました。また、当時の永平寺・総持寺はいずれも江戸から遠く離れていたため、幕府が関東に寺院統制の拠点を置いたことにも大きな意味があったと考えられます。
 その後、幕府の支配が全国へ及ぶにつれて、関三刹の統制権限も拡大しました。龍穏寺は幕府直轄地である武蔵国をはじめ二十三か国の曹洞宗寺院を管轄し、大きな影響力を持つようになります。また、永平寺の貫首には関三刹の住職が就任することが慣例となり、龍穏寺からも十三人もの貫首が永平寺へ昇山しています。

画像の説明:龍穏寺経蔵 左または上:正面の唐破風の向拝 
            右または下:道元ゆかりの彫刻(道元禅師日宋求法の彫刻)

 このように隆盛を誇った龍穏寺ですが、宝暦2年(1752)正月の大火によって伽藍の大半を焼失しました。現在残る山門は天保12年(1841)の再建で、町指定文化財となっています。また、県指定文化財の経蔵は木造三間四面、宝形造、銅瓦葺きの建物で、白漆喰塗りの外壁と、腰より上部に施された道元禅師ゆかりの彫刻(道元禅師日宋求法の彫刻)が見どころとなっています。

画像の説明 左または下:龍穏寺本堂 右または上:龍穏寺山門

 なお、龍穏寺の創建そのものは古くまで遡りますが、曹洞宗寺院としての基礎は永享2年(1430)に上杉持朝によって再建されたことに始まります。さらに文明4年(1472)には太田道真・道灌父子によって中興されました。現在も境内には両名の墓碑が残されており、龍穏寺の長い歴史を今に伝えています。

画像の説明:太田道真・道灌父子の墓碑

注)「関三刹」の読み方は、「かんさんせつ」と「かんさんさつ」の両方が見られます。本稿では、龍穏寺の現地案内板の表記に従い「かんさんせつ」とさせて戴きました

 

写真の説明:曹洞宗瑩山派の本山總持寺大祖堂
 總持寺は、明治三十一年の大火を契機に、総本山を能登国現在の輪島市近郊より、神奈川県鶴見へ移し、現在の總持寺を整備しました。
➡総持寺にジャンプ

2026年09月01日

補陀落山西方寺

 西方寺は、横浜市港北区新羽町にある真言宗の寺院です。正式には補陀洛山安養院西方寺と号します。「補陀洛山(ふだらくさん)」は、サンスクリット語 Potalaka の音写で、観音菩薩が住む山を意味します。古くから南海上にある観音浄土と考えられてきました。
 寺伝によれば、西方寺は建久年間(1190年代)、醍醐寺三宝院座主を務めた勝賢僧正によって鎌倉に創建されたと伝えられています。その後、明応4年(1495)頃に現在の新羽へ移転しました。勝賢は新義真言宗が成立する以前の人物であることから、西方寺は関東地方に江戸時代以降急速に普及した真言宗智山派・豊山派(新義真言宗)ではなく、古義真言宗の系統に属する寺院と考えられます。

画像の説明:西方寺本堂

 西方寺がこの地へ移転する以前、当地には観音院があり、十一面観音菩薩が祀られていたと伝えられています。現在の山号「補陀洛山」は、その古い観音信仰の名残ではないかと考えています。
 本尊は阿弥陀如来坐像で、「黒本尊」として知られています。通常拝観できませんが、神奈川県指定重要文化財に指定されている平安時代後期の仏像です。当初は「漆黒(しっこく)」の仏像かと思っていましたが、寺伝では、金色に輝く阿弥陀如来像に漁師が経文を書きながら墨を塗ったことから黒本尊となったと伝えられています。阿弥陀如来の脇侍は観音菩薩であり、本尊の阿弥陀如来と、古くからこの地に伝わる観音信仰が自然に調和した寺院であることがうかがえます。
 山門を入ると、正面に東向きの本堂が建ち、右手の小高い場所には鐘楼があります。寺の説明板によれば、本堂は享保6年(1721)、鐘楼は宝永5年(1708)、山門は弘化年間(1844年頃)の建立です。いずれも横浜市指定有形文化財に指定されています。

画像の説明:西方寺本堂と山門

 本堂でまず目を引くのは、見事な茅葺屋根です。厚く葺かれた萱は、美しい曲線を描くように丁寧に刈り込まれ、量感のある大屋根に優雅な表情を与えています。茅葺屋根は雨仕舞いという実用性が第一ですが、それだけではなく、茅葺職人の高い技術と美意識によって、一つの建築美として完成されていることを実感しました。
本堂内部は通常非公開ですが、『近世社寺建築調査報告書』によれば、内陣は間口三間、奥行二間で、床を一段高く設けています。さらに禅宗様の出組斗栱(詰組)が用いられ、天井は折上格天井となっており、寺院として非常に本格的な内陣構成を備えているようです。
 鐘楼は200円の志納で一回撞くことができます。静かな境内に響く鐘の音は、落ち着いた寺院の雰囲気によく調和していました。

画像の説明;西方寺鐘楼と山門(山門脇にトクサを見ることができる)
)
 また、山門脇にはトクサ(砥草)が植えられていました。トクサは茎にケイ酸を多く含むため表面がざらついており、昔は木工品や漆器の仕上げ研磨に利用されたことから「砥草」の名があります。何気ない植栽ですが、こうした植物にも日本の伝統技術との関わりが残されていることを知り、興味深く感じました。
 西方寺は「花の寺」として知られていますが、境内には中世から受け継がれてきた観音信仰、古義真言宗の歴史、江戸時代の建築、そして茅葺職人の優れた技術など、多くの見どころがあります。派手さはありませんが、一つ一つを丁寧に見ていくことで、この寺院が長い年月をかけて育まれてきたことを実感できる空間となっています。

2026年08月01日

浄真寺九品仏創建時のこと

 浄真寺では、2014年から「九品仏大修繕事業」が進められています。当初は、九品阿弥陀如来九体と本尊釈迦如来像の計十体を、一年に一体ずつ修理し、2024年に完成する計画とお聞きしていました。しかし、その後のコロナ禍や三仏堂の耐震対策などにより工期が延長され、現在(2026年6月)では、境内の案内板によると2034年の完了を目指して事業が進められています。
 現在は中品堂、下品堂の修理が完了し、上品堂の中生仏が修理中です。残るのは上品堂の二体の阿弥陀如来像と、本尊の釈迦如来像となっています。

画像の説明:左または下:浄真寺大修繕事業の大勧進 右または上:珂碩上人を祀る開山堂

 修理事業だけを見ても気の遠くなるような大事業ですが、三百年以上前にこれらの仏像と堂宇を完成させた先人たちの執念、財力、そして大きなロマンを感じます。
 浄真寺については、これまで私のブログでも二度取り上げましたが、今回は創建当時の歴史や、そこに関わった人々の姿について改めてみてみたいと思います。

(珂碩上人の発願)
 浄真寺の開山である珂碩上人(1618~1694)は、江戸深川の霊巖寺で修学中、二十六歳のときに九品仏造立を発願したと伝えられています。その際、毎日三文ずつを蓄え、将来の造仏費用に充てたといいます。当時、うどん一杯が十六文という時代ですので、実際の資金調達というよりも、日々の誓願を忘れないための象徴的な行為であったのかもしれません。
 九品仏建立の思想的背景には、『観無量寿経』に説かれる九品往生の教えがあると思われます。もっとも、珂碩上人が若い頃に『梵網経』に感銘を受けて発願したとの伝承もあり、発願の契機と九品仏建立の教義的根拠とは分けて考える必要があるようです。
 その後、珂碩上人の名声は高まり、四十六歳のときに最初の阿弥陀如来像を造立しました。そして四十九歳のとき、九体の阿弥陀如来像を完成させます。このうち三体は珂碩上人自身が、残る六体は弟子の珂憶上人(1635~1708)が担当しました。しかし、この時点では木地のままで、漆箔や金箔はまだ施されていませんでした。

画像の説明:左または下;開創なった中品堂 右または上;上品堂中生仏選座中(修理中)

(村上藩と珂碩上人)
 九体の阿弥陀如来像を完成させた翌年、珂碩上人は越後村上の泰叟寺住職となり、約十一年間を同地で過ごします。『行業記』によれば、これは村上藩主の招聘によるものでした。当時の村上藩主は榊原政倫で、榊原家は代々霊巖寺の檀家として深い関係を持っていました。
 霊巖寺は関東十八檀林の一つであり、江戸の浄土宗教学を支える有力寺院でした。浄土宗の寺格は、総本山知恩院を頂点に、大本山増上寺があり、その下に関東十八檀林などの学問寺院が位置づけられています。霊巖寺はその代表的な檀林の一つであり、珂碩上人もここで学びました。
榊原家と霊巖寺の結びつきを考えると、珂碩上人が村上へ招かれたのも自然な流れであったと思われます。

(奥沢への移転と浄真寺の創建)
 当時の霊巖寺は深川にありましたが、水害や火災の危険が常にありました。そのため珂碩上人は、九体の阿弥陀如来像を末永く安置できる場所を求め、奥沢の地に目を向けたものと思われます。ちょうどその頃、奥沢新田村の開発が完了し、本村から独立して新たな村となりました。新田村には檀那寺が必要であり、九品仏の安置場所を求める珂碩上人側との話は、うまくまとまったのではないでしょうか。延宝六年(1678)、四代将軍徳川家綱から奥沢城跡の地を賜り、この地に浄真寺が創建されました。珂碩上人が奥沢へ移り住んだのは六十二歳のときでした。
 九体の阿弥陀如来像は奥沢に移された後、時期は明確ではありませんが漆箔と金箔が施されました。『九品仏記』には、「弥、布漆ヲ加、金色ヲ以、飾ル」(原文漢文、『文化財総合調査報告』より)と記されており、今日私たちが目にする荘厳な定朝形式の阿弥陀如来像姿へと整えられていったことがわかります。

画像の説明:左または下;増上寺(浄土宗大本山)) 右または上;知恩院(浄土宗総本山)

(珂憶上人の功績)
 その後、珂碩上人は元禄七年(1694)に遷化しました。師の遺志を継いだのが弟子の珂憶上人です。珂憶上人は当時、河内安福寺の住職でしたが、尾張藩二代藩主徳川光友をはじめ多くの有力者の帰依を受けていました。その人脈を活かし、三仏堂建立のための資金調達や材木の確保、大工の手配などに奔走しました。
 珂憶上人自身今風に言うとマネージメント能力に優れており、漆箔・金箔の施工や、上品堂・中品堂・下品堂の三仏堂建立も主導しました。珂碩上人が発願者であり学者・構想者であったとすれば、珂憶上人はその事業を完成へ導いた実現者であったといえるでしょう。
 今日私たちが目にする浄真寺の九品仏と三仏堂は、珂碩上人と珂憶上人、二代の僧の大願と執念によって完成したものと私は考察しています。

過去のブログ:九品仏浄真寺 
       浄真寺 九品仏


2026年07月01日
» 続きを読む