姫路城
姫路城は、赤松貞範が、1346年(正平元)に築城したとされますが、近世的な築城は、1600年(慶長5年)関ケ原の戦い後 52万石に封じられた池田輝政によってなされました。池田輝政は赤松貞範以来18代目の城主になります。(*1)。
昭和以降の文化財指定等のエポック:
1931年(昭和6)天守閣が国宝指定(旧国宝)
1951年(昭和26)国宝指定(文化財保護法による)
1993年(平成5)ユネスコの世界遺産

画像の説明:左又は下:姫路城正面より 右又は上:姫路城菱の門をくぐったところ(三国堀と)
昭和以降、昭和の大修理、平成の大修理が行われていますが、国宝の名に恥じぬ様、できる限り、築城当時の姿をとどめるよう努力がなされています。(*2)
ところで、城の石垣に、石臼や石棺が組み込まれています。当時この辺りには古代の墳墓址が残り、それを築城に使ったと考えられています。いつの時代から築城に使われているかはわかりませんが、平成の大修理に際しても、そのまま使用されています。
私は父親から、姫路城は黒く染めた網を張り巡らせていたので、空襲の際、爆撃機から視認されず、爆撃対象とならなかったと聞かされていました。その後の研究では、空襲で焼け残ったのは偶然(天守閣近くに落ちた爆弾が不発だった等)、今となっては奇跡としか考えられないと思います。
天守閣は、5層6階 大黒柱が東西2本、6階の床下まで貫かれています。これまでの城郭が、構造上、下部母屋部分と上部展望部分が分かれているものも多かったのですが、姫路城は、大黒柱を地階から最上階まで貫抜いています。(*3)
よく見るとわかりますが、当城の外観では、3層より下と上層は屋根の向きが変化しています。各層が別棟のように見える「望楼型」と、外観が連続する「層塔型」の折衷ともいわれ、当時の築城思想の転換期にあたります。

画像の説明:左又は下:姫路城西の丸より 右又は上:姫路城石落しと狭間
最近のインバウンドで海外からのお客さんも多いためか、鉄砲狭間、矢狭間、石落しの意匠等の説明が多いと思います。観光的にはそれでもよいのですが、城郭の本質として、強調しすぎるのはどうかと思います。
姫路城の本質は、城下町全体をすっぽり覆う総曲輪(そうくるわ)です。総曲輪は、総構えとも言いますが、町全体を堀等で外部と遮断した都市の事です。日本では外敵が少ないので、総構えはあまり多くないのですが、小田原城や江戸城は有名です。
内堀は現在の姫山公園周辺、今の国道2号線が、城のほぼ中堀、JR山陽本線が、ほぼ外堀にあたり、町全体が城内に含まれました。今歩いてみても、当寺の城域の広がりが分かります。
三重の堀・枡形・馬出し・街道の屈曲配置が破られて、天守閣近くまで敵に侵入されたら、狭間や石落しでは戦局を打開できるものではありません。ただ、実際には、赤松則村以来、680年にわたって、姫路城が戦乱に巻き込まれたことはありません。これも奇跡と言えるでしょう。

画像の説明:左又は下:石垣に組み込まれた石棺 右又は上:埋門 天守閣正面に通じる
(*1)『姫路城史(上巻)』(橋本正次著;昭和48年刊)によると、1333年(元弘3)赤松則村(円心)が縄張りを定め、その13年後に則村の次男赤松貞範が築城したとあります。その後、小寺氏、黒田氏、羽柴氏、木下氏等が城主になりました。
(*2)城郭関連では、国宝5城(松本、犬山、彦根、姫路と2015年に重文から国宝に昇格した松江城天守)、その外、重要文化財7城が国指定を受けています。
(*3)実際には、今回の大改修に際して、見合う巨大な柱が見つからなかったため、途中で継いでいます。