豪徳寺
豪徳寺は、世田谷区にある曹洞宗の寺院です。前身は「弘徳院」と呼ばれていましたが、寛永10年(1633)、世田谷15か村(後に20か村)が彦根藩井伊家の江戸屋敷賄料として与えられると、弘徳院は井伊家の菩提寺として取り立てられました。そして万治2年(1659)、彦根藩三代藩主・井伊直孝の死後、その法名「久昌院殿豪徳天英居士」にちなみ「豪徳寺」と改称されました。(ここでは二代直勝、三代直孝とカウントしました)

画像の説明 左又は下:「大谿山豪徳寺」寺号標
右又は上:本堂のイラスト(現在修復中でネットをかぶっているため、チャットGPTにより作成)
豪徳寺は現在、招き猫の寺として広く知られています。寺には次のような話が伝えられています。
井伊直孝が鷹狩りの帰途、弘徳院の前を通りかかると、門前にいた猫が手招きをするようなしぐさをしました。不思議に思った直孝が寺に入ると、間もなく激しい雷雨となりました。猫のおかげで難を逃れた直孝は和尚の説法にも感銘を受け、以後この寺を手厚く庇護するようになったといいます。
しかし、この話がいつ成立したのかはよく分かっていません。
日本招猫倶楽部監修『招き猫百科』によれば、現在確認できる文献・資料からは、招き猫は江戸後期、18世紀後半頃に江戸・浅草周辺で生まれたものと考えられています。そうであれば、17世紀前半の直孝の時代に、すでに今日のような「招き猫」の風習が存在したと考えるのは難しそうです。
また、江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』や『江戸名所図会』にも、豪徳寺の項には招き猫に関する記載は見当たりません。したがって、この逸話は史実そのものというより、井伊家の菩提寺として豪徳寺が発展する契機を作った直孝の功績を、猫の姿を借りて分かりやすく語った後世の寺伝と考えておくのがよさそうです。
現在、豪徳寺で授与される招福猫児(まねきねこ)は、小判を抱えていません。右手を挙げただけのすっきりした姿で、私はこの豪徳寺の猫がなかなか可愛らしいと思います。

画像の説明:左又は下:仏殿の「三世仏」の額
右又は上:豪徳寺の招き猫
豪徳寺の仏殿には「弎世佛」の扁額が掲げられています。「弎」は「三」の古字で、現在の字体なら「三世仏」です。
仏殿の造営に力を尽くしたのが直孝の娘「掃雲院」です。掃雲院は当時日本に伝来したばかりの黄檗宗に深く帰依していました。
承応元年(1654) 隠元隆琦が中国から来日
万治2年(1659) 井伊直孝死去
寛文元年(1661) 隠元が宇治に萬福寺を開創
延宝9年(1681) この頃までに、掃雲院による造営が完了
と年代を並べてみると、豪徳寺仏殿の建立は、隠元によって明代中国の新しい仏教文化が日本に紹介され、黄檗宗が急速に広がっていた時期とちょうど重なります。豪徳寺の仏殿や仏像にも黄檗様式の影響が認められています。
豪徳寺の三世仏は、阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒菩薩です。なぜ三尊がこの組み合わせなのか、私にはよく分かりません。ちなみに黄檗宗大本山・萬福寺の大雄宝殿は、中央に釈迦牟尼仏、その左右に迦葉尊者と阿難尊者を置き、さらに十八羅漢を配する、明代中国寺院の形式を継承しています。
(豪徳寺の三世仏に関して、下図に説明文をコメントさせて戴きました。)
豪徳寺の阿弥陀―釈迦―弥勒という三尊構成そのものを黄檗宗の教義に由来すると考えるのは難しく、黄檗宗の影響と「弎世佛」の意味は分けて考えた方がよさそうです。
平成18年(2006)には三重塔が新たに建立されました。
その軒下の蟇股には、4辺×3支/1辺=十二支の彫刻が一般に配置されていますが、その中に一匹、十二支にはいない猫がいます。
写真を見ると、猫の左右には亥と午と思われる動物が配置されています。十二支の順番は「亥―子―丑」と続きますから、どうやらここでは子(鼠)の代わりに猫を置いて、「亥―猫―丑」とされたようです。十二支に入れなかった猫と鼠をめぐる昔話を思わせる、招き猫の寺・豪徳寺らしい遊び心です。平成18年建立の新しい三重塔だからこそできた、ちょっと楽しい仕掛けなのかもしれません。
画像の説明:左又は下 萬福寺三尊構成
右又は上 三重塔の蟇股 右から 丑←猫←亥
<付録>「三世仏」の説明です(私が下書きをしましたが、パワーポイントで表を完成することなく、
完成はチャットGPTにお願いしました。2分くらいでした)
