平等院鳳凰堂と宇治神社

 平等院は、京阪宇治駅またはJR宇治駅から徒歩約10分の場所に位置します。特に有名なのが「鳳凰堂」と、仏師定朝ゆかりの阿弥陀如来坐像です。平等院はもともと「宇治殿」と呼ばれる貴族の別荘でしたが、永承7年(1052)、藤原頼通によって寺院として整備されました。当時広く信じられていた末法思想を背景に、極楽浄土の世界をこの世に再現することを目的として、阿弥陀庭園を伴う「阿弥陀堂」が建立されました。なお、「鳳凰堂」という名称は当時の正式名称ではなく、後世になってから付けられた呼び名です。
 鳳凰堂は十円硬貨にも刻まれている、日本を代表する建造物であり、国宝に指定されています。その優美な姿とバランスの良さは言うまでもありません。中央の中堂は二階建てのように見えますが、実際には下層の屋根は裳階(もこし)(*1)です。

画像の説明:平等院鳳凰堂全景と中堂

 屋根の上には、建物の名の由来となった鳳凰が二体据えられています。現在屋根に置かれているものは模刻であり、オリジナルの鳳凰像は平等院鳳翔館に展示され、間近で見ることができます。鳳凰堂中堂の内部には、阿弥陀如来坐像が安置されています。内部拝観には別途拝観料が必要で時間制限もありますが、この国宝仏を間近で拝観することができます。これほど重要な文化財を、直接目の前で拝観できることには感謝するほかありません。この阿弥陀如来坐像は国宝であり、仏師定朝の確証ある現存唯一の作品とされています(*2)。


 定朝は、藤原道長の晩年から頼通の時代にかけて活躍した仏師です。また、仏像制作技法である**寄木造(よせぎづくり)**を完成させた仏師として、仏教美術史に名を残しています。この阿弥陀如来坐像は、主に、頭部・胴体前部・胴体後部・両膝・腕・手などが別々の材で作られ、組み合わせられています。
寄木造の成立について、かつては「一木造に必要な巨木が不足したため」という材料不足説で説明されることがありました。しかし現在では、木材乾燥による割れ防止、内刳りによる重量軽減、制作工程の分業化、といった技術的合理性によって説明されることが多くなっています。


画像の説明:平等院鳳凰堂の鳳凰(模刻)

 

 

 

 

 

 ここで少し私見を述べさせていただきます。
定朝の父である康尚の代に、仏師集団は奈良の巨大寺院の工房から独立したと考えられています。これは、仏像制作のスポンサーが寺院から、独自の仏師集団を持たない貴族へと移行したことと関係しているのではないでしょうか。平安貴族による造仏は、多くの場合、供養日、法会、開眼供養といった特定の日程に合わせて完成させる必要がありました。つまり、依頼者は完成を気長に待つわけではなく、納期の調整が極めて重要だったと考えられます。また仏師側から見ても、早く制作し、早く引き渡すことは経済合理性の面からも重要です。したがって寄木造は、納期短縮を可能にする制作方式としても説明されるべきではないかと考えています。
 例えて言えば、洋服のフルオーダーとイージーオーダーの関係に近いかもしれません。各パーツを別々に制作しながら、完成時には一体感を保つことができる。これこそが、定朝率いる仏師集団の大きな強みだったのではないでしょうか。

坐像の説明:平等院の側を流れる宇治川と宇治神社本殿(重要文化財)

(*1)裳階(もこし)
裳階は、仏堂、塔、天守等で、本来の屋根の下にもう一重屋根をかけるかたちで付けられます。風雨から構造物を保護するため、或いは、装飾のために付けられました。建築上、構造材にはなっていないことに注意してください。法隆寺の五重塔、金堂の裳階は有名です。
以前の紹介記事です。http://bishamonten.info/posts/post122.html

(*2)定朝作の確証について
平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像には銘文が残っているわけではありませんが、「平等院阿弥陀堂の本尊を定朝が造った」とする一次史料を含む有力資料が複数存在し、作者が定朝であることはほぼ確定しています。

(*3)寄木造
寄木造は複数の木材を組み合わせて作る仏像制作技法です。それ以前の主流は、一木より彫り出す一木造でした。

2026年04月01日