石舞台古墳(奈良県高市郡))
石舞台古墳は、蘇我馬子の墓と言われています。これについて、明示的な資料は無いようですが、専門家の間では「蘇我馬子説」が有力です。これは、すぐ近くに邸宅跡と池をともなう庭園跡を持つ「島庄遺跡(*1)」が発掘されており、日本書紀の蘇我馬子の邸宅の記述などと矛盾を生じないことなどが根拠になっています。また、古墳の年代観より6世紀後半から7世紀前半という事で、時代的に矛盾しない事も根拠になっています。
石舞台古墳は、墳丘が失われて石室がむき出しになっています。いつ頃から、今の姿になったのか、またいつ頃から石舞台と言われたかはわかっていませんが、巨大で平らな天井石のうえが「舞台」にみえます。
江戸時代の絵図には、墳丘が無く、天井石が見えて「石舞台」と記載されているそうです。もっとも、蘇我入鹿が乙巳の変(*2)で倒された際に、墓が壊されたのではないかといった仮説もあります。この説では、7世紀中盤から後半頃には、既に、墳丘が無くなっていたことになります。蘇我本家が入鹿の時代に滅ぼされ、敗者の墓も暴かれたといったことでしょうが、この辺りは、想像の域をでません。

石舞台全景 右又は上:2023年6月
左又は下:2015年7月
昭和8年から実施された調査で次の事が明確になりました。墳丘の下部は一辺約50mの方墳で、周囲には5.9m-8.4mの空堀と外堤が巡らされています。また、この古墳が前方後円墳で無い事も明確になりました。上段が完全に失われており、方墳(二段の場合は上方下方墳)か上円下方墳かは分かっていません。
埋葬施設は、南に開口する両袖式の横穴式石室です。石室長は約7.8m、幅約3.4m、羨道長は、約11.5m、幅約2.2m、石室内部には排水設備があり、羨道中央には排水溝が設けられています。石室の高さは、約4.7mです。

石舞台羨道 左:外➡中 右:中➡外
この大きな石をどうやってここまで運び、どうやって天井へ上げたのかは、エジプトのピラミットや大阪城の石垣がそうであるように、やはり興味があります。これについて、現地の「特別史跡石舞台古墳」の掲示板に記載がありましたので、転載させて戴きます。
(*1)島庄遺跡(しまのしよういせき) 石舞台遺跡の西側にある島庄で、発掘調査により、方形池、石組水路、曲溝等の飛鳥時代の遺構が検出されています。
(*2)乙巳の変(いっしのへん) 乙巳の年中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を惨殺した事件。この事件をきっかけとして、大化の改新が起った。