中尊寺金色堂 東博特別展時より
中尊寺に関する特別展(2024年1月~4月)が終了しました。今回は、再度中尊寺金色堂について、アップさせて戴きました。(*1)
中尊寺金色堂は、天治元年(1124)藤原清衡の発願、中尊寺創建当初からの唯一の建築遺構です。明治30年(1897)金色堂修理の際に見つかった棟木墨書銘には、天治元年8月20日の日付と上棟された旨が明記されています。
当寺にとって、最大の危機は、源頼朝の奥州征伐により、奥州藤原氏が滅亡した際でしたが、吾妻鑑(文治5年9月17日の項)によると、当寺からの歎願で、源頼朝により寺領がすべて安堵されたことが記されています。
今回の東博の展示では、現地でもなかなか拝観することのできないコンテンツが二つ含まれていました。一つは、中尊寺金色堂中の仏像の8KCGの技術を用い原寸大で再現した映像です。更に一つは、金色堂の内部を再現した模型展示です。

画像の説明:左又は下 :東博特別展のポスター
(台形補正あり)
右又は上:金色堂を再現した模型展示
金色堂は、単層宝形造、三間四面、木瓦葺き(*2)の阿弥陀堂ですが、壇の中には藤原四代のご遺体を安置していますので、墓堂の性格も兼ね備えています。(*3)四面中、三面に須弥壇があり、それぞれの須弥壇に、阿弥陀如来を本尊、観音・勢至の二菩薩、六体の地蔵尊、持国・増長の二天を安置しています。主にヒノキ、カツラの寄木造又は一木割矧ぎ造(*4)です。全体に丸みを帯びた像容と薄く自然に羽織る仏像の袈裟は定朝様式の特徴で、都と奥州藤原氏が人的、技術的に強く結びついていたことを改めて想起させます。これらは、時代的にも、金色堂創建当時の作品と考えて間違い無いと思います。

画像の説明:金色堂を再現した模型展示
今回の金色堂の模型展示で、気が付いたのが、「蟇股」のことです。蟇股は、柱間の割束が発展し、曲線化したものです。蟇股のなかで、中央で接合するくり抜きタイプは、平安後期のもので、醍醐寺薬師堂等に使われています。この点からも、殆どリアルタイムに都の流行が流入していたと思われます。実際の金色堂は、建物全体が、覆い堂にすっぽりと覆われていますので、軒下までは、中々目がいきません。今回の模型展示で、初めて気が付きました。
なお、当寺金色堂は、しばしば「国宝建造物第1号」として紹介される事があります。しかし、これは、金色堂が、日本最初の国宝建造物という事では無く、同時期に指定された建造物は、数十棟あります。当HPにも、過去に
円覚寺舎利殿 、石山寺多宝塔、醍醐寺五重塔等をアップしています。

画像の説明:左又は下:金色堂覆い堂
右又は上:文化財保護法による「国宝建造物」
(*1)当HPで過去扱った中尊寺関連の記事は下記のとおりです。
中尊寺と毛越寺(岩手県平泉町)
中尊寺(岩手県平泉町) 迦陵頻伽の華鬘
(*2)
宝形造は、四隅の棟が、屋根の中央に集まる屋根。
三間四面は、4面とも、柱が4つ並んで、柱間が3つ(三間)あること。
木瓦葺き(こがわらぶき)は、木を使用して、本瓦葺きを模したもの。
(*3)当時既に火葬が行なわれていましたので、ミイラは神秘的です。ご遺体は、昭和25年から科学的調査が行われましたが、ご遺体が腐敗せずミイラなった理由についても、自然なのか、意図的なのかについて、議論百出だったそうですが、定説は未だ無いそうです。
(*4)割矧ぎ造りは、一木を二つに割り、中刳りを施した後、再度結合させる方式です。中刳は、材木の芯を削り取り、表面が割れるのを防ぎます。この方式は、平安後期、定朝以降始まりました。