海住山寺と恭仁京跡
海住山寺の編集発行の『海住山寺の美術』(平成25年10月)には、自らの寺院を「海住山寺という立地にそぐわない一風変わった寺号をもつ寺院」と紹介されています。これは、加茂盆地の北の急峻な山の中腹に位置するためとの事ですが、このことを、当寺を訪問した際お寺の関係者にお聞きしたところ、当寺から加茂盆地に満ちた雲海が見えたため、そのように名付けられたのではないか、と仰っていました。
山腹にできたわずかな平坦地には正面に本堂、左手には五重塔(国宝)、右手に文殊堂(重文)が残ります。本尊は、十一面観音立像です。

画像の説明:海住山寺五重塔 前面と後面
五重塔は、鎌倉時代建立としては、現存唯一のものです。東が正面だそうです。塔は、本来仏舎利を安置するためのもので、塔の心礎には仏舎利が納められており、心柱は心礎から最上層の屋根まで貫いていました。当寺の場合は、心柱は初重の天井上に立ちます(*1)。この背景ですが、心柱と仏舎利の精神的重要性が低下したことが一因でしょうが、構造上心柱が必要なくなったことも大きいと思います。宋から伝来した新しい工法の「禅宗様」(*2)の影響と思いますが、屋根を四面の壁全体で受けるようになったためです。
塔の総高は、17.7m、五重塔としては、室生寺五重塔に次いで小さいです。塔に裳階が付きますが、裳階の柱間には建具や壁を設けず、吹き放ちになっているため、党全体が、すっきりしています。
なお、以前は麓からは狭い急峻な道を上がる必要ありましたが、消防法の観点からか、消防車が通れる道ができているとお寺の関係者に教わりました。この道は、寺域内の私道のためか、ナビには表示されませんが、通行可能となっています。

画像の説明:左又は下 海住山寺文殊堂 右又は上 恭仁京跡遠景
画像の説明:平城京第一次大極殿
当寺の麓には、恭仁京跡が残ります。海住山寺とは、車で15分、徒歩でも1時間弱の場所です。ただ、恭仁京が営まれた奈良時代の海住山寺の実態は、有無も含めて良く分かっていません。
恭仁京は、741年(天平13年)から743年(天平15年)頃まで、都がおかれました。聖武天皇により、およそ5年間の間に、平城京➡恭仁京➡紫香楽京➡難波京➡平城京と矢継ぎ早に遷都されました。この際、平城京の大極殿が、恭仁京へ移築されたとされます。この大極殿は、恭仁京が廃された後、山背国(平安時代以降は山城国)の国分寺の金堂になりました。現在、平城京跡史跡では、恭仁京へ移築されたとされる大極殿跡に、第一次大極殿が復元されています。
(*1)五重塔初重内部には、鎌倉時代の内陣扉絵(国宝)が残ります。通常、非公開ですが、1月に五重塔内部の
拝観日があるそうです。
(*2)禅宗様に関しては、過去には何度か取り扱いました。
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