神社とお寺の歴史散歩ー毘沙門天から始まった寺社めぐりー

神社とお寺の歴史散歩ー毘沙門天から始まった寺社めぐりー
 このサイトでは、神社とお寺を中心に歴史的文化財のうんちくを語っています。すべて、サイト管理者が実際に現地訪問した際の記録で、コロナ禍以降は月1回更新しています。(実際の訪問と掲載時期にはディレイがあります。)最近の掲載は、サイド(または下部)の「掲載アイテム」をクリックしてください。
 従来の『毘沙門天の世界』(ドメイン名)(兜跋毘沙門天を中心とした毘沙門天の歴史)へもアクセス可能です。また、地域別、掲載時期別にリンク先をまとめています。下記リンクよりアクセスしてください。

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四川の毘沙門天の研究
(中国四川の兜跋毘沙門天について詳細に記載しています。尚、兜跋毘沙門天は、中国四川省及び日本で多く作られた毘沙門天の一形態です)

毘沙門天の歴史(中国・日本の毘沙門天の歴史について記載しています。)

中国の仏教風景

毘沙門天を祀る寺院

以下は、本ドメインに掲載済み文化財の地域別インデックスです。
それぞれ、個別にリンクが張られています。

奈良県 掲載インデックス

京都府 掲載インデックス

西日本(奈良、京都以外)インデックス

神奈川県 掲載インデックス

東京都 掲載インデックス

東日本(東京、神奈川以外) 掲載インデックス

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今月の掲載アイテム

英勝寺

 鎌倉の扇ガ谷にある英勝寺は、東光山を山号とする浄土宗の寺院で、現在、鎌倉で唯一の尼寺です。鎌倉には、かつて尼五山の第一位に数えられた太平寺や、縁切寺として知られた東慶寺などの尼寺がありました。しかし、太平寺は戦国時代、小田原北条氏と里見氏の争いに巻き込まれ、弘治二年(1556)に廃寺となりました。東慶寺も明治以降、尼寺としての役目を終え、男性の僧侶が住職を務めるようになりました。こうした歴史を経て、英勝寺は鎌倉の尼寺の伝統を今に伝えています。

画像の紹介:左又は下:英勝寺山門 右又は上:英勝寺本堂

 英勝寺を参詣した際にいただいた「拝観のしおり」をもとに、この地の歴史をたどってみます。周辺は古くから亀ヶ谷や扇ガ谷と呼ばれ、平安時代には源義朝の屋敷があり、鎌倉時代には寿福寺が営まれました。鎌倉幕府が滅びて足利氏の支配が及ぶようになると、この地には上杉氏が屋敷を構え、その家臣である太田氏も上杉氏の屋敷の一角に住むようになりました。ところが、扇谷上杉氏と山内上杉氏の対立のなかで、文明十八年(1486)に太田道灌が暗殺され、太田氏は衰退していきました。英勝寺の歴史には、この太田氏との縁が深く関わっています。
 英勝寺を寛永十三年(1636)に創建したのは、太田道灌の子孫である太田康資の娘、お勝の方です。お勝の方は徳川家康の側室となり、後に水戸藩の初代藩主となる徳川頼房の養育にあたりました。家康の没後には出家して英勝院と名乗り、後に英勝寺を創建しました。開山となったのは、頼房の娘である小良姫で、玉峯清因と称しました。その後も代々、水戸徳川家の姫君が住持を務めたことから、英勝寺は「水戸御殿」や「水戸様の尼寺」と呼ばれるようになりました。

画像の紹介:左または下:英勝寺山門「詰組」 右又は上 :山門の「丸に三つ葉葵」 

水戸徳川家の手厚い保護を受けた境内には、江戸時代初期の建築がまとまって残されています。山門、鐘楼、祠堂、唐門とも呼ばれる祠堂門は、いずれも重要文化財です。建物を見て歩くと、それぞれの造りに共通する特徴と、細部の違いに気づきます。建築様式は禅宗様を基本としていますが、山門、鐘楼、仏殿の屋根には反りがなく、まっすぐに葺き下ろされています。禅宗様の細部と直線的な屋根の形をあわせて見ることが、境内の建物を味わう手がかりになります。
 山門では、屋根を支える組物である斗栱が、柱の間にも密に並ぶ「詰組」になっています。また、仏殿には、上部が曲線を描く花頭窓が見られます。これらは禅宗様の特徴を示す部分で、建物全体の姿を眺めた後、屋根の下や窓の形に目を向けると、その造りをより身近に感じられます。境内の随所にある屋根瓦などには、徳川家や水戸徳川家の紋である「丸に三つ葉葵」が見られ、寺と徳川家との結びつきを伝えています。「拝観のしおり」にも、大きな三つ葉葵紋と、その下に小さな桔梗紋が描かれています。

画像の説明:左又は下:英勝寺鐘楼 右又は上:「拝観のしおり」
左上に「丸に三つ葉葵」(徳川家や水戸徳川家の紋)、その少し下に
「桔梗の紋」(太田氏の家紋)

 現在の山門に至るまでには、長い復興の歩みがありました。山門は大正十二年(1923)の関東大震災で倒壊し、その後、山王ヶ谷の資産家に買い取られました。平成十三年(2001)に英勝寺が買い戻して復興工事を進め、平成二十三年(2011)五月には落慶供養が行われました。今日目にする山門は、江戸時代からの歴史とともに、震災後の復興の歴史も伝えています。

 仏殿の内部は通常公開されていませんが、山門の落慶供養の際に寺から発行された「東光山英勝寺」に掲載された内海恒雄氏による寺宝解説には、「仏殿内部は天井の中央には竜、周囲には楽を奏でる音声菩薩や迦陵頻伽が描かれ、水戸徳川家の三つ葉葵や太田家の桔梗の紋が描かれている」と記されています。外から見える建築の細部だけでなく、仏殿の内側にも、こうした絵画の世界が広がっていることがわかります。
 境内を奥へ進むと、裏庭には、小規模ながらよく手入れされた竹林があります。歴史ある建物を見て歩いた後に竹林を眺めると、境内の静かな趣をゆっくりと感じられます。英勝寺は、お勝の方や水戸徳川家にまつわる歴史、江戸初期の建築、そして竹林の景色を通して、鎌倉のさまざまな時代に触れられる寺院です。

(注)
音声菩薩(おんじょうぼさつ)は、楽器を奏でる菩薩のことです。東大寺の八角燈籠に登場します。迦陵頻伽(かりょうびんが)は、仏教における想像上の生物で、上半身が人、下半身が鳥の姿をしています。その声は非常に美しく、仏の声を形容するのに用いられます。音声菩薩や迦陵頻伽は、敦煌の壁画にも数多く登場します。
➡本ブログ内の関連項目 中尊寺 http://bishamonten.info/posts/post88.html (迦陵頻伽)
            敦煌  http://bishamonten.info/custom9.html
                http://bishamonten.info/posts/post54.html

2026年11月01日
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